分断の正体
こんにちは○○です。
今回のテーマは分断についてです。
最近、ニュースや新聞で「分断」という言葉をよく聞くようになりましたが、
そもそも分断って何だろうって思いまして、いろいろ考えてみました。
「分断」の辞書的な意味は、「断ち切って別れ別れにすること。」です。
ここから考えると、例えば、コロナ禍での価値観の分断や、大統領選での支持候補の分断についても、なんとなく意味は掴めます。
では、なぜ分断は起こるのでしょうか。
例えば、宗教とか、価値観が異なる集団が共生している状況って日常にあふれていますよね。宗教は、それぞれの進行が違っていたりしても、それなりに分断されず、お互いを尊重してやっていけている印象です。
それがコロナや大統領選とかのトピックになると、分断が起きてしまう。
少し不思議に思いませんか???
コロナであれば、例えば、「コロナは風邪みたいなものだから経済を止めるなんてありえないよ!」って人たちと、「未知のウイルスでどうなるか分からないのだから、とりあえず命第一優先で、経済止めてでも命を守りに行こう!」って人たちと、価値観が分かれたときに、前者の集団では、電車でマスク外して敢えて密になる集会を催したり、後者の集団では、自粛していない人たちを弾圧する「コロナ警察」のような現象が起きたりという分断が加速する事態になっています。
大統領選であれば、例えば日本のコメンテーターたちが、トランプ大統領を支持しているアメリカ国民を貶めるような発言を平気でしています。そうすることで、トランプ大統領を支持することは「悪」であるような風潮が生まれ、支持者は声を上げづらくなり、支持者が声を表立ってあげられないから、トランプ大統領支持者の声が世論に反映されづらくなったりします。最近では、「隠れトランプ支持者」というワードがニュースになったりもしました。
よくよく考えてみると、こうして分断が起きるのって、価値観を他者に強要するから起こるんですよね。そして、それが、相反する価値観の存在の許容ができないと、互いに正義を主張し、価値観を強要し、溝が深まり、分断が起きるのですね。
私は、「分断」という言葉を使う人って頭が良くないと思っています。
基本的には、個人間の価値観の相違の問題だからです。
「分断」という言葉を使う人は、個人間の価値観の相違の問題を、大きな集団に勝手に拡大して問題を顕在化させています。
頭が悪い人たちは、自分の論を補強するために、しばしば、主語を大きくしてしまう傾向がありますよね。
そして、そういう頭の悪い人たちが、主語を大きくすることで、仮想的な分断が生まれ、しまいには実体を持ってしまうのだと思います。
本当に恐ろしいことですね。
「分断」というのは、価値観の強要であり、尊重する精神が足りないから起きるということを話しましたが、これも、コロナ禍でみんなの余裕がないことが大きな原因のような気もします。
世界的に大変な状況にあるせいで、みんなが少しずつ周りを思いやることができずに、いろんなところに支障がでているのですね。
コロナウイルス、本当に恐ろしい。
私もあなたも、こんな状況にあって、もう少しだけ、あと少しだけ、心にゆとりが生まれますように。
コロナ禍による障害児の分断
こんばんは、○○です。
最近、新型コロナウイルスが増えてきて、いよいよ学校も休校か?
という局面を迎えております。
(むしろ、今まで対策が議論されていなかったことが驚きなのですが。)
さて、今回のテーマは、コロナ禍による障害児の分断についてです。
そもそも、障害のある子どもたちは学校以外では、放課後等デイサービスという福祉サービスを利用しているケースが非常に多いです。
放課後等デイサービスは、学校ではレスパイトと呼ばれたりもしていて、学童保育のような場所です。
障害のある子どもたちは学校が終わると、放課後等デイサービス事業所による送迎によってそれぞれの事業所に行って、保護者からの迎えを待つわけですが、
放課後等デイサービスの多くは、利益目的の他業種からの参入が多く、提供するサービスの質がとてつもなく低いのが現状です。(あまりの惨状から、事業所開設のための条件も近年どんどん厳しくなってきています。)
私も、放課後等デイサービスのボランティアスタッフとして働いたこともありますが、ほとんどは、ビデオを延々と流したり、おもちゃを与えて放置したりというもので、子どもたちの主体的な余暇の時間が保証されているとはいいがたい状況です。
さらには、友達と遊ぶ機会もほとんどなく、子どもたちの放課後や休日過ごし方はかなり限定的なものです。
そのような状況の中、コロナ禍により、お家で過ごす時間が増え、障害のある子どもたちは、より家庭の中で余暇を過ごさざるを得なくなってきているのです。
これは、我々、健常な人たちも同様の状況に置かれていますが、障害のある人たちは普段から、社会とのつながりが薄いことや、ネットが流ちょうに使えないことなどから、私たちよりも状況は深刻であるといえます。
障害のある人たちがこれから、コロナウイルスの影響をさらに受けて、より閉鎖的になってしまわないように、地域レベルの取組が必要になってくるのではないかと思います。
常々、マイノリティは軽視される傾向にありますが、コロナ禍においては、みんなが大変な状況です。人の優しさというのは。余裕があるときに他人に向けられるものですから、このような状況では、マイノリティに向けられる優しさが減少し、分断が加速するというのは、ある意味自然な現象なのかの、と悲しい気持ちになったりします。
皆さんも、まずはご自身の生活を大切に、そして、余裕があれば障害のある人たちのことを少しでも思いやってみてください。
それでは、今回はこの辺で。
多様性ってキレイゴト?
こんにちは、○○です。
ゆるく投稿していきたいと思っていますが、
今回は最近気になっている、「多様性」というワード。
イケイケな人たちはダイバーシティとか言ったりしますけど、
要は、「みんな違ってみんな良い!」という世界線の追求です。
私のような教員をしている人や、障害のある人たちと関わったりすることがあると、
この「多様性」という言葉はよくよく耳にしますし、大事なことだと思ったりもします。
ただし、本当に多様性という概念を追求していった先に、
「みんな違って、みんな良い!」という世界は待っていないと思うんですよね。
例えば、最近よく聞くヴィーガンと呼ばれる菜食主義の方々なんかは、動物性のものを食べることを忌避しているわけですが、彼らが大きな潮流となって学校での給食に動物性のものを出さない。なんてことになったらお肉が好きな人たちにとって、制限が生まれ、多様性の損失になるわけです。
そういった感じで、多様性といっても相反する二つの価値観が両立しないことって、
世の中たくさんあるんですよね。
矛盾する二つの価値観がぶつかったときに、それも「多様性」だからお互い受け入れなきゃっていう風になるのは、お互いの首を絞める結果につながるよなあ。と思ったりする私です。
障害のある人たちのことを思えば、「多様性」は非常に重要で、「多様性」の尊重がなくなると彼らの生きる肩身はぐっと狭くなります。
しかし、障害のある人の「多様性」を受け入れるという理念こそ尊いものですが、障害のある人たちが働くことのできる環境が社会に整っていないのも事実なわけで、
現状は、「多様性」という正論で、企業側に負担を強いているというのが正直なところです。
一般企業では、障碍者雇用という制度があって、行政から障害のある人を雇うことで数年間の補助金が出ます。要は、「障害のある人の能力が企業側の要求水準に達してしなくても、お金出すから我慢して雇ってよね。」っていうのが現状の仕組みなのです。
障害のある人たちと関わることが多い私みたいな人からすれば、このような社会がとても切なく感じたりもするんですが、個人のレベルで解決するには、とても大変な問題なんですよね。
そんなこんなで、「多様性」っていうのは、素敵な理念であることには間違いないですが、キレイゴトで固められている側面も強くて、「多様性」とか「ダイバーシティ」とか、気軽に言っている人たちのことを、あんまり信用できないよなぁって思って生きています。
皆さんは、多様性についてどのように考えるのか。良ければ、教えてほしいと思います。
それでは、今回はこの辺で、失礼いたしますね。